ハルモニア 隕石標本/寮美千子の発表原稿

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■国宝の絵巻 絵本に ならまち暮らし(38)/毎日新聞奈良版 2012年5月9日

寮 美千子

 以前からあたためていた「国宝の絵巻の絵をそのまま使って絵本にする」という大それた企画が、ようやく実現。全国発売の運びとなった。『空とぶ鉢 国宝信貴山縁起絵巻より』(長崎出版)
 そもそものはじまりは「奈良にUFO伝説があるのを知ってる?」と、聞かれたこと。伝説とは、信貴山の高僧・命蓮さんにまつわる物語。命蓮さん、大変な神通力の持ち主で、空中に鉄の鉢を飛ばして托鉢に行かせたという。鉢をわずらわしく思った村の長者が、鉢を米倉に閉じこめたところが、さあたいへん。倉から鉢が勝手に転がりだして空を飛び、倉もいっしょに飛んでいってしまう。あわてた長者が追いかけると…という奇想天外なお話。
 この空飛ぶ鉢の形が、いわゆる「アダムスキー型UFO」を髣髴とさせる。いつの時代も、人は天空に、同じ幻を見るのだろうか。
 その絵が、平安時代に描かれた「信貴山縁起絵巻」にいきいきと描かれている。あわてふためく人々、騒ぐ小坊主やのんびりした従者、びっくりして空を見あげる鹿にいたるまで、実に表情豊かに描かれ、「アニメの元祖」とまでいわれている。
 いまでは博物館のガラスケースに鎮座している絵巻だが、当時は庶民の娯楽でもあった。お寺の寄付を集めるため、紙芝居さながらに絵巻を広げて語ったという。
 このおもしろさ、楽しさを、ぜひそのまま現代の人に伝えたい。そう思って、絵巻の絵本化を思いたった。
 信貴山をはじめ、多くの方のお力添えで絵本が完成。5月13日には、信貴山朝護孫子寺のその名も「飛倉」で、完成記念朗読会を開催する。午後2時からで先着70名さま。無料。
 広報したところ、大和郡山の老人福祉施設に住むおばあさんから「うちに信貴山の絵巻があるから、もらってほしい」と連絡があって、びっくり。かけつけてみると、印刷されたかわいらしいミニ絵巻と絵葉書。そのお気持ちがありがたい。朗読会で、子どもたちに存分に触ってもらおう。
(作家・詩人)


山根繁子さんは大正5年生まれの95歳。10年前まで現役の看護婦さんだった。信貴山の事務長を務めたご主人の形見のミニ絵巻をプレゼントしてくださり、感謝!

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■吉野の桜と絵本 ならまち暮らし(37)/毎日新聞奈良版 2012年4月25日

寮 美千子

 奈良に移住して五回目の春、ようやく花の吉野へ。聞きしにまさる人の多さだ。吉野に向かう列車はぎゅう詰め、やっと到着した近鉄吉野駅も人でぎっしり。駅前からロープウェイで山に上る手段もあるが、ここも長蛇の列。相棒のすすめに従い、列には並ばず、七曲坂を歩いて登った。
 足元にはスミレやネジバナなど可憐な春の野草。頭上には満開の桜。ゆるやかな坂道を上っていくと、谷をはさんだ向こうに、徐々に桜の山が見えてくる。そのみごとなこと!
 一本一本の木が、独自に光の粒子を集めた、とでもいうように、ぼうっと丸く淡い光を放っている。白いもの、桜色のもの、小さな赤い葉が見え隠れするもの、まるで印象派の絵、やわらかな光のモザイクだ。
 聞けば、ヤマザクラ系を中心に吉野には二百種を越える桜があるという。そのため、一本一本、開花の時期や色が異なり、こんなみごとなモザイク模様を見せてくれるそうだ。
 吉野の桜には、こんな起源伝説がある。「修験道の祖である役行者(飛鳥〜奈良時代)が、吉野の地で蔵王権現を感得、桜の木にそのお姿を彫りご本尊にした」。以来、桜の木は神聖なものとされ、お参りに来た人々が山に桜の木を植えて奉納した。自分たちが愛でるためではなく、神さま仏さまに捧げた桜なのだ。そう思って見ると、なおさら感慨深い。
 しかし「蔵王権現を感得」とはどういうことか? と思っていたら、いい本を見つけた。絵本『蔵王さまと行者さま』。著者は吉野のお山の金峯山寺。役行者の出自から、金峯山寺に、なぜ青くて巨大な蔵王権現が三体も祀られているのか、その由来を子どもにもわかるように、やさしく描いている。
 桜も、単なる観光として消費されてしまっては本望ではないだろう。神仏の力の満ちる聖地である奈良。訪れる人々には、祈りの心に満ちた旅を、「光を観じる」ための本来の「観光」をしてほしい。そんな「観光」の手引きとなるすばらしい絵本だ。大人にも、子どもにも、ぜひ読んでほしい。
(作家・詩人)


『蔵王さまと行者さま』(著・総本山金峯山寺、絵・松田大児 コミニケ出版) この4月に発売になったばかりの大型絵本

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■チェルノブイリの絵 ならまち暮らし(36)/毎日新聞奈良版 2012年4月11日

寮 美千子

 「サマショーロと呼ばれている人達がいます。行政の指導に従わないで、立ち入り禁止に指定された村に戻ってきたり、出てゆこうとしない『わがまゝな人』という意味です」
 そんな言葉でこの大絵巻は始まる。橿原市昆虫館で開催中の『人と自然へのまなざし 絵描き貝原浩の仕事〜チェルノブイリスケッチ・風しもの村』。画家の貝原浩氏は、1947年、岡山県倉敷市生まれ。子どものころから、ともかく絵が好きで、家の周囲の道路は、ローセキで描いた彼の絵で埋めつくされていたという。高校時代は大原美術館に入り浸り、東京芸大へと進んだ。卒業後は画家として、また造本デザイナーとして活躍。貝原氏がイラストや装丁を手がけた本は、わかっているだけで七百冊もある。実際には千冊は越えるだろうといわれている。
 チェルノブイリの原発事故から6年後、貝原氏はベラルーシを訪れた。原発事故現場の風下で、放射線量が高いため立ち入り禁止になっている村に行くと、驚いたことに、そこで暮らしている人々がいた。「サマショーロ」だ。持ち前の明るさと人なつこさで、貝原氏は村人と友だちになる。畑のトマト、森のキノコ、川の魚…。村人の食卓を彩るのは、地元で採れた食材ばかり。貝原氏は、ともにそれを食べた。高い放射線量だと知りながら。
 日本に戻ると、彼は憑かれたように巨大な絵巻を描きだした。ふすまほどもある和紙に10枚。未来の日本への命がけの警告だった。
 貝原氏は9回もベラルーシを訪れ、やがてガンを発症し、2005年、帰らぬ人となった。享年57歳。絵巻が大判の画集として刊行されたのは死の5年後。そのわずか8カ月後の福島の原発事故だった。かつて橿原市昆虫館のポスターを描いたことがご縁で今回の作品展となった。
 美しい森と畑、けれど、すべてが放射能汚染されている。底知れぬ哀しさが、圧倒的な画力で迫ってくる。いまの日本の風景と、すべてが重なる。涙が止まらない。
 豪胆で繊細な人だった。生前、いっしょに絵本を作る約束をしていたが、果たせなかったのが残念。一人でも多くの人に見てほしい。
(作家・詩人)


『チェルノブイリスケッチ・風しもの村』より。その画力と大きさに圧倒される。ぜひ実物を見てほしい。15日まで

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■ギャラリー巡り ならまち暮らし(35)/毎日新聞奈良版 2012年3月28日

寮 美千子

 ならまちは歩いて楽しい町。小さな路地を入ると、思いがけずおしゃれなカフェや雑貨屋さんに出会う。何より、ギャラリーが多いのが楽しい。専業のギャラリーもあるが、お店と兼用のところも多く、肩の凝らない気楽なギャラリー巡りができる。
 そんな兼業ギャラリーで、本紙連載中の童話「ならまち大冒険 赤の巻」の挿絵の原画展を開催中だ。それも3カ所、同時開催!
 第1会場は、西寺林商店街の「ならまちの駅」。ここは、松原米穀店の松原秀典さん(58)が町おこしの一助にと作った私設の観光案内所。ふらりと立ち寄って見ていく人も多い。ベニヤをペンキで白く塗った手作り感いっぱいの壁面がギャラリー。店の前の巨大な木彫りの招き猫は「ならまち大冒険」のキャラクターとして登場。ならまちの猫の大将「ウトウトさま」という役どころだ。
 第2会場は、下御門商店街の「藝育カフェSankaku」。オーナーは、元お菓子職人の山本綾子さん(38)。芸術で人と人を繋ぎ、育てていこうというのがテーマのお店で、奈良の若きアーティストたちの拠点となっている。原画展は、二階へあがる長い階段の壁で開催中。お店は、元ダンスホール。ミラーボールきらめくカフェの壁面や、昔の電話ボックスも、ギャラリーになっている。
 第3会場は、ならまちのはずれ、北京終の「町屋ゲストハウスならまち」。シャープを定年退職した安西俊樹さん(62)が、若い人や外国人バックパッカーたちが気軽に泊まれる安宿を作ろうと一念発起して作ったお宿。古い町家の風情がすばらしい。「田舎のおじいちゃんちに遊びに行く気分で来てほしい」という温かい気持ちがあふれる宿だ。
 連載は今月いっぱいだが、「藝育カフェSankaku」では4月4日、「町屋ゲストハウスならまち」では4月末日、「ならまちの駅」では5月末日まで原画展を開催する。ぜひ、ギャラリー巡りを! 巡るうちに、自然とならまち散策になる。途中にもギャラリー多数。きっと新たな発見があるはずだ。
(作家・詩人)


「ならまちの駅」のマスコットの招き猫と松原さん

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■昼の「お水取り」 ならまち暮らし(34)/毎日新聞奈良版 2012年3月7日

寮 美千子

 東大寺・二月堂の「修二会」、通称「お水取り」の本行が、3月1日から始まっている。14日まで、毎晩、巨大な松明が燃やされて、多くの人が訪れる。ニュースでも、この「お松明」のことばかり報道するから、「お水取り」といえば「松明のお祭り」と勘違いしている人も多いが、行の心髄はそこから先だ。
 二月堂に上った練行衆のお坊さまたちが、未明まで内陣で声明や五体投地を行う。著名な音楽評論家が「お水取りは、音楽典礼だ」と語っていたが、確かにその通りだ。リズムを取って床を踏む音、鐘や鈴、錫杖の音色、ほら貝の響き、そして歌うようなお経の声の重なり、まるで音楽劇を見ているようだ。
 女性は内陣には入れないが「局」と呼ばれる周囲の部屋にあがらせていただき、音を聞くことはできる。格子戸の向こう、灯明のほの暗い光に照らされるなか、繰り広げられる古代の香り漂う儀式に、遠い遠い時の果てに誘われ、敬虔な心持ちになる。
 これを聞きたいと思うが、なにしろ夜だし、深夜に及ぶので、なかなか行けない。ところが、昼間でもこれを聞けるということに、いまごろになって、やっと気がついた。練行衆は、昼も上堂して行をしていらっしゃるのだ。
 食堂作法と呼ばれる、日に一度だけの食事の後、午後1時ぐらいから、二月堂に上って行をなさる。あの「南無観自在菩薩」の声明も、聞かせていただくことができる。
 昼間に行くと、さまざまなことに出会える。3日に参詣した折には、童子の方々が「達陀」の行に使う松明の部品を作られていた。内陣で灯すもので、小振りで繊細な美しい松明だ。湯屋では、お供えするお餅「壇供」を作るために、お米を研いでいた。上七日と下七日、壇供を入れ替えるので、明日8日の昼に行くと、その様子を拝見することができる。
 2週間に渡る本行をつつがなく行うためには、膨大な下準備が必要だ。14名の童子の方々が、休む間もなく様々な仕事をしていらっしゃる。それも含めて、すべてがこの行なのだと、昼のお水取りを見て、改めて実感した。
(作家・詩人)


「達陀」の松明の部品を作る童子の方々。最終の組み上げは9日の午前中に行われる

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■名勝 大乗院庭園文化館 ならまち暮らし(33)/毎日新聞奈良版 2012年2月22日

寮 美千子

 奈良には無料で入場できるすてきな名所がいっぱいある。東大寺の国宝・二月堂や、鷺池に浮かぶ浮見堂は、24時間、出入り自由。真夜中の名月を楽しむこともできれば、夜明けの光を満喫することもできる。
 「名勝大乗院庭園文化館」もそんな場所のひとつ。庭園散策には入場料100円が必要だが、窓からの鑑賞なら無料。特大の窓ガラス越しに、復興した大乗院庭園を一望できる。雨も、暑さ寒さも関係なく、快適な環境でゆったりと時を過ごせて好都合。飲み物の販売機もあるから、散歩のひと休みには最適だ。
 庭園には、宝石のようなカワセミをはじめ、カイツブリ、カモ、サギなど、さまざまな鳥が水辺を求めてやってくる。室内にいながらにしてバード・ウォッチングができる。
 朱色の太鼓橋のかかる池の向こうに見える奈良ホテルは、築百年を越える明治の名建築。その借景も、まるで一幅の絵のように美しい。
 この大乗院庭園、2年前に指定管理者が「ならまち振興財団」から「奈良ホテル」になった。
 その時に赴任してきたのが、いまの館長の植田光政さん(66)。植田さんは、大阪の大学で土木工学を学んだのだが、卒論のテーマが「庭園の水理学」という変わり種。学生時代、故郷の木曽から単身都会に出てきたさみしさを慰めてくれたのが、京都で出会った里山風の庭園。以来、庭園一筋だという。卒業後は最大手の造園会社に就職、日本全国で造園に関わってきた。
 定年後「設計や現場管理だけでなく、自分の手で庭を作りたい」と、奈良の職業訓練校で半年間剪定などを学び、その技術を生かして奈良ホテルに再就職。3年間ホテルの庭作りに携わり、大乗院庭園文化館の館長になった。
 ともかく庭が好き。庭への愛は、溢れるばかりだ。こういう場所、とかく天下り人事になりがちだが、ほんとうに必要で適切な人材を配してくれた奈良ホテルの見識に感謝する。
 館長さんは自分でも剪定するし、庭園の歴史も深く学んで、その魅力を語らせると尽きない。明日からは「描かれた旧大乗院庭園資料展」も開催される。ぜひ足を運んでほしい。
(作家・詩人)


館長の植田光政さん。大好きな庭一筋のしあわせな人生。大乗院に行けば、この笑顔に会える

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■生命の起源 ならまち暮らし(32)/毎日新聞奈良版 2012年2月8日

寮 美千子

 命の始まりのことを考えると、ふしぎな気持ちになる。父と母がいて、わたしが生まれた。その父と母にも両親がいて、その人々にも両親がいて……と、連綿と続く命。
 どんどんさかのぼっていくと、いつしか人間ではない生き物になる。ホモサピエンスが地上に登場したのは約20万年前。つまり、1万代もさかのぼれば、わたしのご先祖は猿になってしまう。さらにさかのぼれば、陸上の生き物でさえなくなり、やがて海の中でまどろんでいた単細胞生物にまで行きつく。
 生命誕生から40億年、一度も途切れることなく、ずっと命がバトンされ、このわたしにつながっている。途中たった1個体でも欠けていたら「いまのわたし」はない。わたしの体の中には、生物進化40億年の記憶がぎっしり詰まっているのだ。
 地球の誕生は46億年前だから、6億年の間、地球にはひとかけらの命もなかった。そこにどうやって最初の生命が誕生したのか。
 その謎に挑戦している学者が、奈良にいる。奈良女子大名誉教授の池原健二先生(67)。「GADV仮説」という、最も新しい生命起源説を提唱、世界中から注目を集めている。既存の説は、遺伝子であるDNAやRNAを起源とするものが主だが、素人考えでも、始めからそんな複雑な遺伝子ができるわけがないと直感する。それ以前にもっと単純な4つのアミノ酸の結合による仕組みがあったのではないか、というのが「GADV仮説」だ。
 2014年には、なんと奈良を舞台に「国際生命の起源学会」が開催されることになった。海外から250名、国内から150名の科学者が奈良に集結する。その前哨戦としてこの2月初めに「生命の起源研究会」が奈良で開催され、気鋭の学者が集って熱い議論を交わした。
 古い宗教がいまも息づく古都奈良で語られる生命の起源。一般の人が参加できる公開講座も予定しているという。「せっかく奈良で開催するのだから、仏教や神道の『生命観』を語る分科会も開いてください!」と池原先生にお願いした。実現するといいな。
(作家・詩人)

池原健二
「GADV仮説」を奈良で発表中の池原健二先生。「この理論でいつの日かノーベル賞を!」と、周囲の期待も盛りあがる。

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■塀の中の成人式 ならまち暮らし(31)/毎日新聞奈良版 2012年1月25日

寮 美千子

 奈良少年刑務所の受刑者向けの授業「物語の教室」を受け持って5年目。今年初めて、塀の中の成人式に招かれた。
 明治の名煉瓦建築である刑務所の講堂は、古めかしく威厳に満ちている。正面の舞台には、厚紙を切り抜いてつくった白い鳩。翼を広げ、いままさに飛びたとうとしている。みな、刑務所の教官たちの手作りだ。
 手許には、画用紙に印刷されたプログラム。広げると、ここにも鳩が、ぴょこんと顔を出す。これも教官たちの手作り。込められた思いの深さが、胸にしみた。
 講堂の後ろは家族席。刑務所で成人式を迎えることになったわが子や兄弟を見守ろうと、みな、緊張した面持ちで座っている。
 やがて、新成人13名の入場。紺のブレザーにグレーのズボン。えんじ色のネクタイを締めている。足並み揃えて入場するその姿に、早くも涙するご家族の姿がある。
 所長は祝辞で、130年間作り続けているサグラダ・ファミリア教会で働く日本人の言葉を紹介した。「生きている間に完成しなくても、いま作り続けることに意味がある」と、少年たちに勇気を与えてくれる言葉だった。
 新成人たちは一人一人、自分で作文した「二十歳の決意」をみんなの前で朗読。驚いたことに、生ピアノの伴奏つきだ。この日のために音楽療法士の先生が、彼ら一人一人の「好きな曲」をアレンジし、弾いてくださっていたのだ。こんなにも大切にされる新成人が、ほかにどこにいるだろう。
 自らの罪を深く悔い、こみあげる涙をこらえながら、明日への決意を述べる少年たち。重い罪を背負いながら、これからどう償うか、どう生きるかを真剣に思い悩む姿が、そこにはあった。こちらも涙が止まらない。
 こんなに愛に満ち、思いやりに満ち、厳粛な雰囲気に満ちた成人式を、わたしはほかに知らない。それはまさに「責任ある大人への一歩」を踏みだすための神聖な儀式だった。
 形だけの成人式、暴れる新成人もいるが、ここにはほんとうの成人式があると思った。
(作家・詩人)


成人式の式次第のプログラムを広げると、まっ白な鳩が飛びだした

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■生まれ変わり ならまち暮らし(30)/毎日新聞奈良版 2012年1月11日

寮 美千子

 愛称は「カオリン」。空き缶アーティストとして名の知られた彼女を、ならまちの仲間はみな、親しみを込めてそう呼んでいた。「カオリンでーす」と、はつらつと登場する明るい声が、いまも忘れられない。
 赤坂かおりさんの訃報が届いたのは、年の瀬のこと。あまりの急なことに、耳を疑った。まだ34歳という若さ。聞けば、心不全による突然死だったという。
 奈良で生まれ育ち、大学で美術を専攻し、その後もずっと芸術から離れたことがなかった。その画力を買われ、新聞社の法廷画家をしていたこともある。
 世間を騒がせた大きな事件を担当したとき、彼女は被害者を深く悼むと同時に、裁判の過程で明らかになった加害者の心の傷にも同情を禁じ得なかった。そのために悩みもする、そんなやさしさを持ちあわせた人だった。
 「空き缶」という素材に出会ったのは、10年前。なんの未練もなく捨てられてしまうものに心を寄せたのが、いかにも彼女らしい。
 「空き缶でいろいろ作っているんです」
 初めて会ってそう聞いたとき、わたしはインドなどで売られている素朴な空き缶アートを想像した。ところが、実物を見て仰天した。その繊細さ、美しさ。とても空き缶から作ったとは思えなかった。
 彼女の手を通じて、空き缶は芸術作品という宝物に生まれ変わったのだ。小さなキャンドルスタンドから、翼を広げた大きな鳳凰まで、作品は多岐に渡った。
 展覧会の新企画もあったという。彼女の急逝が残念でならない。けれど、お棺のなかの彼女を見たとき、もしかしたら、彼女は彼女の人生を充分に生ききって旅立ったのかもしれない、と感じた。それほどまでに、穏やかで満ち足りた表情をしていた。本当のところは、彼女に聞かなければわからない。
 確かなのは、わたしたちならまちの友人はみな、もっともっといっしょに歩いていきたかったということ。いまごろカオリンは、透明な天の孔雀に生まれ変わって、わたしたちを見守っていてくれるだろうか。
(作家・詩人)


赤坂かおりさんの作品。空き缶で作ったキャンドルスタンド。炎に揺らぐ影が美しい

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■文化ネットワークの核としての公民館活動〜「連続講座・宮沢賢治を体験する」を通じて/1990

寮 美千子

 地価高騰による家賃の値上げに悲鳴をあげて、東京世田谷区の下北沢から、同じ小田急沿線の相模大野の小さな新築マンションに泣く泣く移り住んだのは、二年半前の三月、やけに寒い日だったことを覚えている。
 引っ越してからも、下北沢の楽しさばかり思い出していた。小さくておしゃれな店が並ぶこじんまりとした街は散歩にうってつけだったし、緑も意外と多い。十年も住んで、友だちもたくさんいた。新宿へも渋谷へも十分足らずで出られるという足の便の良さにも、すっかり慣れきっていた。
 だから、多摩川を越えて新宿から四十分かかる相模大野に移り住むなど、気分は都落ち。「でも、そっちは緑も多くていいでしょう」と友だちは、なぐさめ半分でいうけれど、残念ながら相模大野はそれほどすてきな田舎でもない。どこまでも住宅地が広がるベッドタウンだ。わたしは、ほこりっぼく殺風景な相模大野に住んで、心は下北沢にある神奈川都民だった。自分の住んでいる街を、少しも愛していなかった。
 それでも、子どもがいれば、もう少し違ったかもしれない。同じマンションにいっしょに入居したわたしと同世代のおかあさんたちは、子どもをかたわらに遊ばせながら、話に花を咲かせている。話題が共通しないから、その輪にもなかなかはいりづらい。
 一応「童話作家」という肩書きだけはあるものの、開店休業状態の専業主婦のわたしは、気楽な下北沢の暮しを思い出しては、さみしさとつまらなさとでぽつねんと暮らすという毎日だった。
 それでも、しばらくすると「へえ、童話を書いているの」というのをきっかけに、少しは話の輪に混じれるようになった。やっとお友だちもできたと思った早々、なんたることか、住宅公団の抽選に当たってしまったのだ。
 何度出しても当たらなかった抽選に、よりによってこんな時に当たるとは…運命も皮肉だ。本当なら、飛び上がって喜びたいところなのに、どうしても浮かない気分。それでも元気を出して、つい五ヶ月前にひもといたばかりの荷物を、またダンボールに詰め込んだ。
こんなことなら、いっそ荷物を出さなければよかったと、半分呪いながらの引越し支度だった。
 転居先は、相模大野の駅の反対側にあるできたばかりの高層団地「ロビーシティ相模大野五番街」。米軍から返還された病院跡地に建設されたものだ。十四階、十一階とそびえたつ建物が、また新しいところで暮らすのかと不安でいっぱいのわたしには、ひどく威圧的に見えた。
 わが家は、十一階。見晴らしは満点だけど、どこか地から足が離れた不安感ばかりが先に立って、宇宙船のコックピットに閉じ込められたような気がしてならなかった。巨大団地ゆえか、以前の小さなマンションにいたころよりも、もっと話の輪にはいることがむずかしく思えた。そんな状態でうつうつとした一年が過ぎようとしていた。
 ある日のこと、用事で訪れた市役所の出張所でこんな貼紙を見かけた。
「日曜文学館・宮沢賢治 企画委員募集」
出張所と同じビルのなかにある大野南公民館の貼紙だった。
 わたしの目は吸いつけられた。「宮沢賢治」とあれば、どんなものでも目を奪われてしまうほどの賢治ファンなのだ。童話を書き始めたきっかけも、そこにあった。「賢治講座」は、少しだけ孤独なわたしの、相模大野における小さなともしびになったのだ。
「いつはじまるのかな。はやくはじまらないかな」
 やはり同じビルのなかにある小さな図書館に通うたびに、そう思ってその貼紙を見ていた。けれども、いっこうはじまる気配がない。
 ある日、思い切って聞いてみた。
「あのぉ、この宮沢賢治の講座は、いつはじまるんでしょうか」
「今年の十二月ぐらいからぼちぼちはじめようと思っているんですが…」
事務室のなかから出てきたやわらかな物腰の男性が、そう答えた。わたしは、がっかりしてしまった。だって、まだ八月なのだ。暑い盛りだ。それが冬まで持てなんて…。
「いま、企画委員を募集しているんです。よかったらぜひ参加してください」
「で、でも…。どんな方が企画委員にはいっていらっしゃるんですか」
「相模女子大の国文の教授の方や、高校の国語の先生、それから朗読の会の方や、文学の同人誌をなさっている方なんかです」
こりゃだめだ、とわたしは思った。わたしみたいな高卒の専業主婦の一般人の出る幕ではない。わたしはすっかりおじけづいてしまった。しかも、日曜文学館というのは、もう何年も続いていて、一昨年は荻原朔太郎、昨年は高村光太郎というようにテーマを決め、連続講座として年五〜六回の講座を、ほぼ先ほどのメンバーで企画運営しているのだという。引っ越してきてまだ一年半もたたないわたしなんか、とてもはいる余地はない。
 ところが、係の武居厚さんは企画委員にはいるよう熱心に勧めてくれる。
「みんな気さくな人ばかりです。いっぺん顔を出してみてください。企画会議の日が決まったら電話しますから、ここに電話番号を」と、なんだか半分押し切られるような形で、連絡先をメモに書いてきてしまった。
 それからひと月もたたないうちに武居さんから連絡がはいった。いよいよ賢治講座の第一回の企画会議だという。九月のある日、夜の七時からだった。
 わたしは、緊張で胸をどきどきさせながら出かけた。公民館の事務室の片隅で、会議ははじまった。ソフトなムードで女子大生ばかりか相模大野のおばさまがたに圧倒的人気の相模女子大の教授にして詩人・馬渡憲三郎先生、栗原高校の燃える若き国語教師でやはり詩人でもある佐々木悦郎先生、朗読の会で目の不自由な方のために長くボランティアをなさっているすてきなおばきま矢田康子さん、矢田さんとともに文芸同人誌のメンバーであるやさしいおかあさん野沢睦子さん、そして公民館のインテリゲンチャ武居さん。なんだかスクウェアなムードのなかに、わたしひとり年齢不詳の不良少女みたいなGパン姿で気が引け、身を縮めて座っていた。
 会議といっても、一回目なので、賢治をめぐる雑談が中心だ。じっと聞いていたが、これがむやみに面白いのだ。「ああ、この人は賢治についてこんなふうに感じているんだ。わたしとおんなじだ」と思ったり「へえ、そんな見方もあるのか。面白いなあ」と感じたり、「なるほど、そういうことだったのか」と感心したり、気がつくと自分も夢中になってしゃべっていた。あっという間に二時間が過ぎて、ひと月後の会議の日程を決め、散会となった。
 初対面なのに臆面もなくしゃべりすぎたかな、と思いながらも、帰る道々賢治のことで頭がいっぱいだ。考えてみれば、宮沢賢治について、これだけ話し合った覚えがない。わたしの脳みそは、みんなの話にすっかり刺激を受けてしまった。天の川について科学的でしかも美しい描写をした賢治、弟の清六氏に化学実験をしてみせた賢治、宗教に心酔した賢治、肥料設計技師を名乗り農民になろうとした賢治、農民芸術概論を思想の基盤に農民の生活と文化の拠点となるべく夢を描いて羅須地人協会を開いた賢治、オルガンやチェロを弾いたりレコード鑑賞会を開いたハイカラな賢治、さまざまな小さな童話を書いて妹とし子に読み聞かせた賢治、美しい絵を何枚も残した賢治、画期的な詩人としての賢治…。多面体賢治の姿が光を放ちながらぶんぶん頭のなかをめぐって、その番は、なかなか眠りにつくこともできなかった。
 それからというもの、賢治講座のことが頭を離れない。ただの文学者ではない多面体賢治にどのようにアプローチしたらいいだろう。そこは自己中心的なわたしのこと、まず自分の知りたいこと、やってみたいことが頭に浮かぶ。賢治が清六氏の前でやって見せたという化学実験をいっぺんこの目で見てみたい。賢治は星や宇宙が好きだった。最先端の天文学者は、賢治の文学をどんなふうに見ているだろう。また、その頃といまと、宇宙観はどのように変化しているのだろう。賢冶が帰依した法華経とは、どんなものなのだろう。文学としてのアブローチ以外にも知りたいことが山ほどある。そうだ、この際、頭のなかを飛び回っているいろんなアイデアをまとめて、企画書をつくってみようと、興奮したまま考えついた。以前、広告制作会社に勤めていたから、企画書はお手のものだ。こんなところで役に立つとは思ってもみなかった。そう思って、後先の考えもなく、一気に企画書を仕上げてしまった。その概要は次のようなものである。

〈連続講座・宮沢賢治を体験する〉
賢治地歴館/イーハトーヴォの地理と歴史
賢治幻燈会/子どもたちによる心象画の幻燈
賢治実験室/美しい色や形の化学実験
賢治宇宙船/宇宙科学者から見た賢治
賢治童話館/童話作家が語る賢治
賢治曼荼羅/僧侶が語る賢治と仏教思想
賢治詩人館/詩人が語る現代詩人賢治
賢治音楽会/賢治童話の弾き語り

 これはなかなか面白い、こんな講座があればぜひ参加したいと自分でも思った。あきれた自画自賛である。けれど、冷静になって考えてみれば、とんでもないことである。先走りもいいとこだ。そのことに気づいて、わたしはちょっとぞっとした。やっぱり、持っていくのはやめようかと、何度躊躇したかわからない。けれども、思い切って持って行くことにした。これは、あくまでも企画案だ。単なるたたき台だ。めちゃめちゃにたたき壊してもらったってちっとも構わないのだ。それで、もっと面白い興味をそそられる講座ができるなら、ずっといい。新参者が、なんというでしゃばりなと思われるかもしれない。この際、そう思われたってしかたない。いちかばちかだ。よし。
 わたしは決死の覚悟というとおおげさだけど、かなり緊張して二回目の会議にのぞんだ。企画案は、少しでも立派に見えるように、ワープロで打って人数分コピーした。風当りがやわらぐようにと、懐柔作戦?で、アーモンドケーキも焼いて持っていった。
 アーモンドケーキは好評だった。そして、信じられないことに、わたしの企画案も好評だったのである。なんという心の広い人々だろうかと思った。新参者を排除しようなんていう意地悪な気持ちなんか、だれもこれぽっちも持ち合わせていないのだ。何年もわたし以外のメンバーで企画してきたのに、ひょっこり現われたわたしの企画を「なかなか面白そうじゃない」のひと言で気持ちよく受け入れてくれたのだ。うれしいし、びっくりもした。排除されたり嫌われるのではないかと杞憂していた心の狭い自分がはずかしくなった。
 すぐに企画案をたたき台に、具体的な実行方法を考えたり、新しいアイデアを加えたりの作業がはじまった。何回かの打ち合せを重ねるうちに、はっきりした計画が見えてきた。
 「賢治地歴館」と「賢治詩人館」は、馬渡先生が講師をしてくださることになった。「賢治実験室」は、栗原高校の佐々木悦郎先生と化学の村井仁史先生がおふたりで組んで実際の実験と解説をしてくださることになった。「賢治童話館」は、わたしの師でもある調布在住の童話作家・小沢正先生をお呼びした。幸いにして相模原市には文部省の宇宙科学研究所がある。「賢治宇宙船」には、ボイジャー計画にも参加された宇宙研の電波天文学者・平林久先生がいらしてくださるという。
 困ったのは「賢治曼荼羅」と「賢治音楽館」である。みんなで手を尽くしたが、宮沢賢治に興味を抱いているという僧侶が近辺でみつからない。また、作品を弾き語りしている方に問い合わせたところ、ワンステージ最低十万円という答えが返ってきた。ひと講演につき約二万円という謝礼が決まっている公民館の催しでは、とてもお呼びすることができない。公民館主催なので、観客からお金を 集めることもできないのだ。
 そうこうしているうちに朗報がはいった。下谷の飛不動というお寺さんのご子息で日本画家となられた近藤弘明先生が、小田原にアトリエを持っていらっしゃるという。しかも、日本画で賢治作品を描いて絵本も出版されているのだ。「賢治曼荼羅」は仏教にも造詣が深い近田先生にお願いすることになった。
 残るは、音楽館。
「それなら、公民館と文化財団の共催という形で、できたばかりのグリーン・ホールでコンサートを開催したらどうだろう。採算が合えば、実行できると思うんだが」武居さんがそういいだしたときには、びっくりした。そんなことが実現できるのだろうか。ともかくもダメモトで人選である。三千円のチケットが三百枚は売れるような動員力のあるアーティストでなければならない。ピアニスト加古隆氏が、数年前「KENJI」という宮沢賢治を題材にしたアルバムを発表した。加古さんはどうかしらと、ふといってみると、武居さんと財団の石川課長のお骨折りで、あれよあれよというまに話が決まってしまった。
 わたしは、まるで夢でも見ているような気持ちだった。公民館活動でコンサートの企画までできるなんて、思ってもみなかった。
 さらに、今年開館したばかりの相模大野図書館から、オープン記念に賢治の朗読会を関きたいのだがという話が持ち上がり、賢治講座を開催している公民館に協力の要請があった。賢治講座の企画委員と図書館の山本館長で朗読のプログラムが検討され、朗読者には声優の香椎くに子氏が招かれることになった。
 その上、賢治講座開催中に、地元の天文同好会「星の会MIO」のメンバーによる星の写真展も開かれることになった。賢治の詩や童話に登場する星々の写真を、賢治の文章と並べて展示するという趣向だ。
 「日曜文学館」だと来館できる層が決まってしまうという意見も出て、会社の帰りに寄れるような日もつくった。子どもたちに来てほしい日は、日曜の昼間に設定した。結局、こんなプログラムに決定した。

〈連続講座・宮沢賢治を体験する)
一九八九年
十二月八日(金)夜/賢治地歴館
一九九〇年
一月二十日(土)夜/賢治曼荼羅
一月二十八日(日)昼/賢治実験室
二月二日(金)夜/賢治宇宙船
二月十一日(日)昼/賢治童話館
二月二十三日(金)夜/賢治詩人館
三月十八日(日)昼/朗読による宮沢賢治(相模大野図書館)
三月二十五日(日)昼/加古隆ソロ・コンサート 賢治から聴こえる音楽(グリーンホール相模大野)

 こうなるともう、公民館によるマルチメディア展開である。後は、聴講者の数が多いことを願うばかりである。以前の日曜文学館では、もっとも少ない時で五人しか来なかったという悲惨なこともあったという。手をこまねいて持っているわけにはいかない。講師をしてくださる先生方のためにも、できるだけの人を集めたい。
 それには、宣伝だ。もちろん、公民館の館報では大きく扱ってもらう。それから、無料で配られる新聞やタウン誌、ぴあやシティロードなどの情報誌、新聞の学芸欄のもよおし情報など、無料で載せてもらえそうなところには、みんな送った。どこかで賢治関連の講座があると聞けば、駆けつけてビラを配った。
 そしていよいよ第一回「賢治地歴館」である。前日はどきどきしてよく眠れなかった。眠ると、だあれもこなかったという夢を見た。
 ところがどうだろう。蓋を開けると、満員だ。六十名は集まった。成功だ。うれしかった。回を重ねても人数は減らなかった。興味のある回だけ出席する方もいれば、熱心に毎回通ってくださる方もいる。
 馬渡先生も佐々木先生も講師として壇上に立ち、矢田さんは、詩人館のときにすばらしい朗読を聴かせてくださった。武居さんは毎月の内容を迅速にテープから起こしてワープロでまとめてくださった。大変な労力だ。実験室の日は、町田のケーブル・テレビ局が取材にかけつけてくれた。すばらしい番組に仕上がって、一同感激してしまった。
 わたしは、少しだけ受付を手伝って、後は受講者に混じって楽しんでいればいいだけだった。毎回が面白く、次が待ち遠しかった。図書館にも百名を超える人が集まり、コンサートのチケットは売り切れになって、心に残るすばらしい音楽で賢治講座は締めくくりとなった。なんだかちょっと気が抜けて、さみしいような気がした。それは、わたしだけでなく企画委員のみんなも、講師の先生もそうだった。そしてもちろん、受講者のみんなからも「この秋からまた、ぜひ続賢治講座を」という声があがった。
 しばらくすると、賢治講座の内容を起こしたものが印刷されて、一冊の冊子にまとまった。企画委員みんなで紙を折りホチキスで止めて製本した。ずっしりと充実感のつまった手ごたえのある本だった。
 せっかく賢治に興味を待った人々が集まったのに、みんな講師の先生の方ばかり向いてお互いのことを知らない。それじゃつまらない。みんなにできあがった本を配るついでに集まってお互いに語り合おうよ、という声がどこからともなく高まった。とうとうもう一回、おまけの会が開かれることになった。「賢治談話室」だ。四月二十五日、賢治講座の名残りを惜しむように多くの人が集まった。自己紹介をしあって、はじめていろいろな人がきていることを知った。美容師さん、幼稚園の先生、絵本作家、測量機をつくる工場の技師、主婦、大学生、学校の先生、定年退職して悠々自適の暮しをするすてきな人、画家…普段なら知り合うこともない人どうしが、ひとつの場で賢治を語った。賢治以外のことも語った。そんななかから、来年の賢治講座の企画委員にはいりたいという人もでてきた。意気投合した仲間で研究会をつくろうという話も出た。わたしは、美容師さんから「月に一回、美容院がおわったあとお茶会を開いていますが、ご一緒にいかがですか」と誘われ、そこで楽しいひとときを過ごすようになった。日本画家の近藤先生からは、アトリエに遊びに来るように誘われて、講座の仲間総勢十名もで押し掛けて、すばらしい絵を拝見したり、真夜中に山中の巨大なしだれ桜を見にいった。そのなかのひとりは、近藤先生のアトリエで 日本画を学ぶことになった。
 そうやって、波紋はいまも広がり読けている。気がつけば、わたしには、友だちと呼べる多くの人ができて、ただ殺風景だとばかり思っていた相模大野の街を自分の街として愛しはじめていた。

 まったく、軽い気持ちで参加した公民館活動が、こんなに広がるとは夢にも思っていなかった。それも、本当にみんなのおかげだ。
 これまでのわたしは、たとえば口をあけておいしいエサが降ってくるのを待っているお魚だった。だれかが何かをしてくれる。そこに自分が参加すればいいとだけ思っていた。けれども、公民館は「道具」なのだ、ということに気がついた。公民館の職員が企画してくれた催しをただ待っているだけではなくて、みんなどんどん自分のやりたいことを持ち込み、実現に向けて職員やみんなといっしょに頑張ることができるのだ。その方がずっと楽しい。みんなから湧き起こった気持ちが、公民館をぐんぐん動かしていけば、活気に溢れた催しをすることができるだろう。その力は、ホールの催しにまで発展する可能性もある。
 わたしが越してきてからわずかの間に、ホールと図書館がオープンし、さらに秋には百貨店も開店して、相模大野は「文化の街」として大きく変わろうとしている。立派な施設ができただけでは、文化の街とは呼べない。住んで楽しいエキサイティングな街にするためには、みんなが「こんなことがやりたい」「あんなことがやりたい」と、声を上げることが必要なのだということを、賢治講座を通じて痛感した。住む人にとって魅力ある街になれば自然とまわりからも人が集まるだろう。
 大野南公民館では、もう次の企画が始動している。「仕事の宇宙」と題し、近隣に住むさまぎまな仕事をする人を講師に招いて、お話を聞こうというものだ。芸術家や職人、さまざまな人が予定されている。五月二十五日の第一回は、お隣の町田にお住まいでシャーリー・マクレーンの本を翻訳した山川絃矢・山川亜希子ご夫妻をお呼びした。参加者は百七十名と、賢治講座を上回る盛況で、熱気溢れる講演だった。大野南公民館を拠点に、もう新たなネットワークづくりがはじまっている。
 こうやって形成されていく人々のネットワークそれ自体が、温かく血の通ったわたしの新しいふるさとになっていくのかもしれない。

※平成2年度「毎日郷土提言賞」論文の部・神奈川県優秀賞受賞論文
『連続講座「宮沢賢治を体験するII」講義要約集』(相模原市大野南公民館、1991)に再録

■奈良漆の輿 ならまち暮らし(29)/毎日新聞奈良版 2011年12月14日

寮 美千子

 奈良漆の塗師の樽井禧酔師(67)に初めてお目にかかったのは、2003年のこと。これがきっかけで、師に惹かれ、わたしたち夫婦は、奈良に越してきたといっても過言ではない。
 当時、樽井師は、薬師寺大講堂再建の漆工の責任者として三人のお弟子さんとともに、須弥壇の勾欄、論議台、高座などの大仕事を仕上げた直後だった。初対面のわたしたちに、師は熱弁をふるって奈良漆と螺鈿の魅力を語り、惜しげもなく実物を見せてくださった。
 感動のままに薬師寺大講堂を訪れ、師の手による論議台を見て、その美しさに驚いた。反射する光に少しの歪みもない。こんな大物なのに何という精妙な仕上がり。しかも「最低保証300年」という堅牢な塗りだという。
 漆というものは、ヤワで傷つきやすいもの、というわたしの先入観は見事に覆された。奈良では、正倉院宝物と変わらぬ下地技法を使い、漆に余分な油を混ぜずに塗っては研ぎ、磨きあげ、大変な手間をかけて、驚くほど堅牢で美しい漆製品を作っているのだ。
 掌に入る繊細な螺鈿の香合から、自動車ほどの大きさのものまで、樽井師の作品はどれもが息が飲むような美しさだった。
 樽井師の家は代々漆の塗師。江戸時代の刀の鞘塗りの見本もある。そんなお家柄だから、社寺の仕事も代々受け継いでいるのだとばかり思っていたら、そうではなくて自力で開拓したと聞いて、さらに驚いた。
 昭和の半ば、問屋制度をとり分業制だった奈良の漆工の業界に反旗を翻し、自身の手で一貫して制作する方法に切り替えたのが若き樽井師だった。だからこそ可能な仕事があった。28歳で国宝である唐招提寺の講堂の仕事に関わったのを皮切りに、法華寺、春日大社など、有名寺社の仕事を数多く手がけている。
 今年、春日大社がおん祭りのために、巫女の輿を4台新調、樽井師が製作した。下がり藤の紋が螺鈿で埋めこまれた美しい輿が、明日15日の大宿所詣行列で初お目見えとなる。午後1時JR奈良駅出発。伝統の行事に新たな美が加わった。その輝きを、ぜひその目で見てほしい。
(作家・詩人)


西木辻にある樽井禧酔師の工房。輿の担ぎ棒を、師は鮮やかな手つきでぐいぐいと塗っていった

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■憧れの奈良住まい ならまち暮らし(28)/毎日新聞奈良版 2011年11月30日

寮 美千子

 昨年1月、三条通にあった老舗映画館「シネマデプト友楽」が残念なことに閉館した。更地になってみると、驚くほど広大な敷地だった。次は何ができるのだろう、と思っていたら、ただのマンションになると聞いてがっかり。図面を見てさらに落胆。表通りに面して、ゴミ置き場と壁。これでは、商店街が台無し、息の根を止められてしまう、と感じた。
 地元の商店街や町会の方々は強い危機感を抱き、施主側に変更を申し込み、マンションの1階2階をぜひ店舗にしてほしいと伝えた。
 施主側は、ゴミ置き場は裏に移したものの、1階にわずか8坪の店舗を1軒入れるだけの代替案を出してきたにすぎない。情けない。
 設計者はこの町に来たんだろうか、一度でも歩いてみたのだろうか、と疑いたくなった。裏の暗渠の路地も、小さなお店を連ねたりすれば、実に面白い路地になるはずなのに。
 そもそも、三条通は春日大社への参道。采女祭や春日若宮おん祭の行列の通る神さまの道だ。東には「春の日がのぼる」春日のお山、西には「日の沈む暗峠」の生駒山をのぞむ。JR奈良駅と近鉄奈良駅を徒歩でつなぐ、観光ぶらぶら歩きの大動脈でもある。
 その三条通沿いに住むというのは、とんでもなく贅沢なことだ。歴史ある国際観光都市・奈良に、今日も明日も明後日もいられるということ。朝な夕なに東大寺や興福寺、春日大社を散策し、博物館や美術館もすぐそば、四季折々の自然もすばらしい。それを織りこんで設計すれば、豊かな老後にも、もってこいの、誰もが憧れる格別な物件になるはずだ。
 店舗付高級マンションができれば、町の価値がさらに上がる。施主は、後々まで人々に感謝され、企業のイメージもステータスもあがる。それなのに、なぜ、全国どこでも同じような画一的な設計しかしないのか。
 その土地の歴史、土地が持っている物語、だからこそ生まれる魅力を理解して、価値ある物件を作ってほしい。一度作ってしまえば大型建築物は半世紀はそのままになる。町の風景そのものだ。企業の責任は重大だ。
(作家・詩人)


施工する長谷工コーポレーションの図面を元に、建築パースの第一人者・宮後浩氏が起こしたパース


宮後氏による「理想のイメージ図」。ずっと楽しい。基本設計に大きな変化を加えなくても、こうできるという

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■奈良少年刑務所 ならまち暮らし(27)/毎日新聞奈良版 2011年11月16日

寮 美千子

 天平のイメージが強いので霞んでしまいがちだが、実は奈良は明治の名建築の宝庫だ。奈良国立博物館、旧奈良県物産陳列所、奈良女子大記念館はいずれも国の重要文化財。奈良ホテルも近代化産業遺産の認定を受けている。
 極めつけは、なんといっても奈良少年刑務所。明治41年竣工で今年で築103年になる。赤い煉瓦塀と堂々とした門が実に美しい。明治に作られた五大監獄のなかで、唯一全体が現存し、しかも現役で稼働している建物だ。
 近年「近代化遺産」への関心が高まり、奈良に明治建築を見に来る人が増えた。しかし、刑務所だけは簡単に見られない。それでもどうしても、と刑務所に正式に申し込んで見学をさせてもらった人々がいる。近代化遺産の保存と活用を考えるNPO「Jヘリテージ」の前畑洋平さん(33)たちだ。
 「受刑者が罪を償っている場に、建築見たさで行くなんて不謹慎」と言うなかれ。かくいうわたしも、実は最初は建築見たさで刑務所を訪れた。そこで受刑者たちの詩や絵を見てその繊細さに驚き、それがきっかけでボランティアを申しでて「社会性涵養プログラム」の講師になって丸4年になる。月1回の授業で受刑者たちに書いてもらった詩を、昨年『空が青いから白をえらんだのです 奈良少年刑務所詩集』という1冊にまとめた。
 Jヘリテージの人々も興味を持ってくださり、刑務所見学の後でぜひ講演してほしいと頼まれた。見学会には遠く東北や九州からも参加者があった。「受刑者は、遠い世界の人じゃない。ぼくらと同じ人間だと感じた」「ぼくらだって、コンプレックスを持っている。一歩間違えば、ぼくがここに入っていたかもしれない」「犯罪の背後に、虐待やいじめなど、きびしい環境があったと知ることができた」「再犯を防ぐには、出所した受刑者をわたしたちがあたたかく受けいれることが必要と感じた」など、刑務所を「更生施設」として認識してもらえて、うれしかった。
 きっかけはなんでもいい。そこから刑務所と受刑者への理解が進み、ともに歩いていくことができれば、と切に願う。
(作家・詩人)


奈良少年刑務所の本館。煉瓦はすべて明治の囚人たちの手作り =上條道夫撮影

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■「仏教伝来」の前と後 ならまち暮らし(26)/毎日新聞奈良版 2011年11月2日

寮 美千子

 奈良国立博物館で「正倉院展」がはじまった。連日大にぎわいだが、この博物館ではほかにも、たくさんいい企画展をしている。
 忘れられないのは、2005年に行われた「曙光の時代」展だ。総出品点数1556点。旧石器時代から奈良時代にいたるまでの考古資料を時代に沿ってずらっと並べて壮観だった。日本の黎明の時代を一望する感があった。
 「実物」の持つ力はすごい。モノの魂がぐいぐい迫ってくる。そこで、わたしは驚くべき体験をした。縄文と弥生の間に、なぜか、大きな断絶を感じなかったのだ。
 それまで、日本での一番大きな文化的断絶は縄文から弥生だと思っていた。縄文こそが日本列島のオリジナルな形を持つ狩猟採集文化で、大陸からやってきた弥生の稲作文化が、それをすっかり塗り替えてしまったのだ、と。
 それなのに、実際の発掘品を大量に、しかも時代の流れに沿って見てみると、その底にある美意識が完全には消えずに、脈々と息づいていると感じられた。縄文の美意識の残滓は、古墳時代まで続いていた。
 ところが、細々とつながっていた縄文以来の美意識が「仏教伝来」でぷつんと断ち切られていて、また愕然とした。まったく新しい大陸の美意識で完全に上書きされていた。当時の人々にとって、それは「明治維新」をしのぐ大変革だったのだろう、と感じられた。
 橿原考古学研究所附属博物館ではいま、特別展「仏教伝来」を開催中。仏教とともにやってきた「香」も展示されている。もちろん当時の現物ではなく、いまのものだが、実際に手で触れ、香りを嗅ぐことができる。乳香や安息香、龍脳などのエキゾチックな香りとともに仏教はやってきた。お経を読みあげる声も音楽も来たはずだ。仏教伝来は、五感の革命だったのだと改めて思う。「日本的」なお寺は、もともと、異国の風物だったのだ。
 この博物館の常設展には古墳時代の資料が大量にある。ほとんどが実物ですごい迫力。仏教伝来以降の「正倉院展」を見たら、それ以前の日本を感じるために、ぜひ橿原の博物館まで足を延ばしてほしい。11月20日まで。
(作家・詩人)


埴輪の馬と鹿。どちらもやけにかわいい。橿原考古学研究所附属博物館・常設展示

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