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はじめに
勇崎さんが
鳥海さんの掲示板で紹介(2月6日(水)01時32分30秒の投稿)されていた、ヤノベケンジさんの掲示板を見てみた。
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シークレット「ゴジラ対太陽の塔」
四月に川崎の岡本太郎美術館で「ゴジラの時代」展をやる予定で、そのワークショップを担当するのが
ヤノベケンジさん。展示されるゴジラ映画の素材を使って「ゴジラ対太陽の塔」という特撮映画を撮ろうという企画。
ぼくはかなりの怪獣映画好きなので、「ゴジラの時代」展で特撮映画のワークショップというと、どうしても気になってしまう。それで掲示板と
企画趣旨をひととおり見たところ、強い違和感をおぼえた。
ぜひ一言いいたくなって、書いたらだいぶ長くなった。そこで、掲載にはここCafe Lunatiqueを借りて、ヤノベさんの掲示板には、この発言へのポインタを置いてくることにした。
……という書き出しのこの文章は、二週間前にはだいたい書いてあったのだが、その間に映画はとりやめになったそうだ。
さっさと投稿すればよかったと思っても後の祭り。そのまま発表することにした。
(以下、「▼」の行にはアンカーを打ってあるので適宜ご利用ください。)
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文章からたちのぼる雰囲気
たとえばこんな説明がなされている。
▽ヤノベさん「この映画企画」(シークレット「ゴジラ対太陽の塔」 2002年02月02日(土) 11時32分)
を通してやりたかった事は、私達の世代の持つ独特な美意識の根源を探り新しい物を創ろうとしたのです。
映画のメインキャラクターはゴジラ、太陽の塔、遮光器土偶、アトムスーツ、そしてそれらが融合してしまう「21世紀美の新怪獣。」
自分に美意識を植え付けたものは西洋の泰西名画で無く確実に日本のポップカルチャーです。そこに美の根源があるという問いかけを作品を通してずっとしてきました。
その美の究極の融合体が現れる。それは太陽の塔からも時代をさかのぼり縄文土偶にまでたどられる。時代を超えた日本人の中に流れる美意識の遺伝子を発見する壮大な計画です。(ちょっと大袈裟?。)
つまりピカソ見てもかっこいいと思わないけどゴジラ見てしびれる気持ち、その源を探るって事です。
ヤノベさんは昭和40年生れ。長らくのテーマであるポップカルチャー世代の美意識の根源をさぐって新しいものをつくる――らしいが、どうもわからない。
「泰西」は西洋のこと。「西洋の泰西名画」って何? というのはご愛敬としても
(美術を商う人の言葉とは思えないが)、この短い文章だけでも、どうしてもなにか臭う。
ひっかかる部分をとりあえず三つ挙げると、
- 美意識の主体
「私達の世代」という一般化は、あまりに安易すぎないか。「私」で十分ではないか。 - 美意識の独特さ
ほんとうに“私達の世代の独特な”美意識なら、その独自性ゆえに“縄文から日本人のなかに連綿とある”美意識とは関係ないのではないか。 - 美意識の空白
作品の成立年代で考えると、ゴジラ(昭和29年〜)が太陽の塔(昭和45年)の前後にわたっている。縄文土偶は二千五百年以上前。
縄文から昭和までの数千年間、「日本人の中に流れる美意識の遺伝子」は、どこに潜んでいたのか。
……とかになるのだが、どうだろう。
この企画でのヤノベさんの一連の言葉について、なぜ、どのへんがあやしいと思ったのか、どうしたらその感じが解消されるのかを考えてみることにした。
まず、今回の企画の主役である「ゴジラ」の扱われ方から検討する。
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昔の特撮・いまの特撮
のちにポップカルチャーと呼ばれるようになったイベント性・大衆性の高い作品群のうち、とくに怪獣映画に興味を抱くぼくは、
▽ヤノベさん「企画趣旨」
(特撮映画「ゴジラ対太陽の塔」は)出来るだけチープな昔の特撮の味を出したものにしようと考えてます。実際予算がないのでそうするしか仕方がないのですが、最近のCGに頼った特撮は辟易というのもあります。
……という「昔の特撮」が具体的にどのへんの作品を指すのか、わからない。
昔の特撮というと、ぼくはまず
メーサー車や
マーカライト・ファープ、
西海橋の描写を見たときの衝撃が思い出されて、それらはチープとは正反対のところにある美しさだ。チープな特撮の印象はあまり残ってない(残りにくい)。ヤノベさんはどの作品のどんな特撮シーンが印象に残っているのだろうか。
そして、それがどんな作品であれ「最近のCGに頼った特撮は辟易」で「出来るだけチープな昔の特撮の味を」という対比は無意味。この物言いは、よくテレビの“なつかしアニメ大集合”とか銘打った番組で、ともかく古そうな作品が映ったらゲストやエキストラの人たちに即座に「なつかしー」と合唱させる演出に似た“エセ懐古趣味”としか理解できない。
(だいたいヤノベさんはCGとそうでない画面の見分けがついているのだろうか。)
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超次元の決戦ゴジラ対ピカソ
ヤノベさんは「ピカソ見てもかっこいいと思わないけどゴジラ見てしびれる」(前掲「この映画企画」)というけれど、
企画趣旨に「オキシデントデストロイヤー」といった誤記があるのを見ると、これは「ゴジラ」というキャラクター・イメージの安易な借用にちがいない、と思う。
ちゃんと作品と向き合ってゴジラ映画に敬意払ってる人だったら、オキシジェン・デストロイヤーは間違えないだろう。
そして“ポップカルチャー⇔泰西名画”の図式でゴジラと対置されている「ピカソ」についても、具体的な絵画や彫刻が想起されているようすがない。
一般に“ピカソみたいな絵”といえば、やはり“へんな形に造形された人や物の絵”だろう。そして「泰西名画」というのは、いわゆるピカソの絵じゃないだろう。なんでここで
ピカソなの。
こんなぼんやりした「ピカソ」と「ゴジラ」との対比で、どんな美意識が説明できるというのか。
ピカソもゴジラも、絵画でも彫刻でも怪獣の造形でも、好みは人それぞれだ。でも、美という観点からは、わりと普遍的な答えしか出ないようにぼくは思う。
そして、どのジャンルにも“かっこいい・しびれる”作品と、“かっこよくない・しびれない”作品があるが、その答えは、個々の作品の検討からしか出てこない。
ぼくは
平成ガメラの飛行シーンを見てしびれるけど、
門坂さんの版画の水面を見てもしびれる。
レンブラントの影と光を見てもしびれる。これはぼく(昭和46年生れ)の美意識。はたして“ヤノベさんたちの世代が独特に持つ、時代を超えた日本人の美意識”と関係はあるのか、ないのか。
いままでのところ、ヤノベさんたちの世代特有の美意識というのがどんなものかさっぱりわからないので、ぼくには判断のしようがない。
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漠然としたイメージと知名度をあわせもつ名前
「ゴジラ」と「太陽の塔」には共通点がある。“20世紀後半に日本で有名になった、ヤノベさんの世代ならみんな知ってる作品の名前”だ。
ただし、みんなが知っているのはその名前と、間接的で漠然としたイメージのみ。
個別具体的な作品として向き合う人は、知名度にくらべると極端に少ない。両者とも“作品”というより“イベント”としてそのブランドが流通したものだから。
これらの共通点は「ピカソ」にも「アトム」にもあてはまる。
ヤノベさんが「ゴジラ」というとき、具体的な作品からは離れた、世間や自分の記憶に漂う、「ゴジラ」という名前とともに思い出される、時代周辺のぼんやりしたイメージを想起しているのかもしれない。
だとすると「ゴジラ」や「ピカソ」の粗雑な扱いの理由はわからないでもない。時代を象徴する名前、雰囲気を思い出させる呪文としての意味はあっても、実際の個々の作品には興味がないのだろう。
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そういう美意識の持ち主
かつて、ゴジラとか、太陽の塔とか、アトムとかいった、みんな知ってる名前と祝祭的なイメージを持ったパワフルなキャラクターがいて、それぞれに時代を画した。それを浴びて育ったヤノベさんは、自分が獲得するに至った美意識のすがたに興味があって、それを追求している。
ヤノベさんが美意識の持ち主を「私」と書かず「私達の世代」としたのは“その時代特有の空気”の実在と支配力の強さを信じているからだろうか。
でも、その美意識の説明はきわめていいかげんなので、ほんとうにそんな独特の美意識を持った世代的集団がいるのかどうかはぼくにはわからない。
あるいはもしかしたら、その美意識は当該集団の人たちには自明で、ヤノベさんはその集団の外に語る(普遍性のある)言葉を持っていないだけなのかもしれない。
しかし、もしそうだとしても、たとえば岡本太郎が個人として縄文の美にたちむかっていたように、問題の「独特な美意識」を追求しているのはヤノベさん個人であってほかの誰でもないんだから、ここは素直に「私」と書くべきだ。なんでわざわざ「私達の世代」なのか。
個人として語らず、主体をマジョリティ寄りにすりかえていくのは、あやしい論法の典型のひとつだ。
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独特で普遍的な魅力
かつてつくられた作品に宿る美意識が、ある普遍性を持っていれば、その美を別な作品のなかに甦らせることはできるだろう。
その美の魅力は、個々の作品と向き合うなかでサルベージされるものだ。看板を借りてきただけでは、その魅力は出てこない。
岡本太郎の縄文をモチーフとした作品に美的な魅力があるのだとすると、それは「縄文」というブランドのせいではない。縄文の美と格闘した本人が、オリジナルな作品として定着させた美意識の達成によるものだ。
怪獣映画を浴びて育った作家たちの手で生まれた平成ガメラ・シリーズの功績は、「ガメラ」ブランドの復活よりも、いわゆる東宝特撮の最良の成果に勝るとも劣らない「しびれる」魅力を見せてくれた部分に大きい。そこにあるのは、知名度や既視感に頼らない、普遍的な魅力を持ったオリジナル作品だ。
ある作品の魅力が“独特で普遍的”という話はある。名作とはそういうものだ。
でも、特定の世代の美意識が“独特かつ普遍的”だなんてことがあるだろうか。
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縄文の美こそは人類の夢
……という疑問を立てて、よく考えてみましたら、世代による文化というものを措定すれば、特定の世代の美意識がそれぞれに独特なのは当り前の話だ。独特でない美意識を持った世代はいない。それが前の世代の美意識から完全に切り離されていることもありえない。(ゴジラや太陽の塔といった作品をつくっていたのは、それらを大衆文化として享受した世代よりずっと上の人たちだ。)
ある時代に大衆文化(ポップカルチャー)があれば、そこで育った人にはもちろん文化的な影響があるだろう。そのときどきで大衆文化のようすが変れば、植え付けられる美意識も変っていくだろう。
だから、「私達の世代の持つ独特の美意識」というのは、わざわざいうまでもないことだ。語るとすれば、それがどのようなものであるかだ。
ここでヤノベさんの主張(
前掲「この映画企画」)をもう一度読むと、ようするに“自分が影響を受けた当時の大衆文化には美の根源があり、それは縄文以来の美意識と通底する”ということだ。
ヤノベさんが、当時の大衆文化(のイメージ)がいまも気になっているのだということは理解できる。
だけどしかし、「ゴジラしびれる! 太陽の塔かっこいい!」といえばそこで個人的に完結する話が、なんで“ゴジラや太陽の塔には私達の世代独特かつ日本人に普遍の美意識が宿っている”なんて大げさな話へ展開しないといけないのか。
もしかしてヤノベさんは、自分の“気になる”気持ちを自分だけでは支えられなくて、“自分がそれを気にしてしまうのは、そこに美の根源があるからだ、日本人ならみんなこの美しさがわかるはずだ!”という誇大妄想トンデモ説を口走っているのではないか。
(この線でいくと、「私」でなく「私達の世代」と語るのも、自分の記憶/美意識を自分ひとりで支えられなくて、世代共通のものと思いこみたい願望のあらわれか。)
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太陽の塔とゴジラと縄文をむすぶもの
ここまで考えてきて、ぜんぜんわからないのは、縄文土偶とゴジラとの関係だ。あるいは太陽の塔とゴジラとの美的関連だ。
- 太陽の塔は縄文の遺物を意識してつくられた。→ゴジラは太陽の塔と同時代の産物だ。→ゴジラは縄文以来の美意識とつながっている。……無理。
- ゴジラは中生代の恐竜をモチーフにつくられた。→遮光器土偶は超古代日本に飛来した宇宙人をモチーフにつくられた。→じつは恐竜も以前その宇宙人がつくったものなので同じ美意識が宿っている。……無理。
ヤノベさんは本気で、縄文土偶にみられる古代人の美意識が、縄文弥生を生きぬいて、ずーっと下って飛鳥奈良、江戸も明治ものりこえて、ゴジラの美に結実している、と考えているのだろうか。なんか変じゃないか。
というか、岡本太郎が結びつけた以外に、縄文の美が現代の大衆文化の作品へと美的伝統として受け継がれてきたという美術史的根拠はあるのだろうか。
ぼくの解釈では、縄文美術の歴史は昭和26年にはじまったことにする(この年、岡本太郎が縄文美術を発見した)。
鉄腕アトムも同年にはじまっているし、ゴジラも太陽の塔もみんな同世代の大衆文化だから、ヤノベさんはそれらがみんな気になる。ヤノベさんの気になるものにはヤノベさんの美意識に照らした美が宿っているので、その共通項を抽出すれば、とってもヤノベさん的に美的なものができあがる。ヤノベさんはそれをつくろうとしている……。
どうだ。これなら、あやしげな「時代を超えた日本人の中に流れる美意識の遺伝子」とかをうっかり発見しないですむし、とてもスッキリする。
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普遍の美を宿すもの
ヤノベさんの主張のとおりだとすると、「ゴジラ対太陽の塔」で誕生する「21世紀美の新怪獣」は、その美意識の遺伝子が時代を超えているので、三千年前の縄文人が見ても、ヤノベさんの世代の日本人たちが見ても、三千年後の旧日本人が見ても「美しい」と思うものになるのだろう。大いに期待する。
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この企画は何のためか
ところで、この映画は実際問題、どういう意図のもとにつくられるのだろうか。
「
企画趣旨」という紙には、なぜか企画の趣旨が書かれていない。あるのは何々をしますという予定だけ。
ところがその予定――「ゴジラの時代」展で借りてくるゴジラの着ぐるみとジオラマが使えるというので進めていた話――も、東宝が、
▽ヤノベさん「ちょっと状況説明」(シークレット「ゴジラ対太陽の塔」 2002年01月24日(木) 14時23分)
映像作品としてゴジラを使っちゃいけないという事なのです。アーティストがゴジラをモチーフに彫刻作品や絵画を作るのは構わないが、東宝以外がゴジラを使って映像を制作する事を許す事は出来ない
……というのでできなくなっている。(この東宝の言い分はわかりやすくて、親切だと思う。)
その後、ヤノベさんの企画意図(前掲「この映画企画」)が出てきたけど、上記検証のように、ぜんぜん説明になってない。
この企画は、何なのか。
掲示板に集まっている人だと、たとえば勇崎さんは、ヤノベさんのいう「私達の世代の持つ独特な」の部分をとばして読んでいるようだ。勇崎さんは、自分が考えていたのと同じ名前の企画と出会って、そこに自分の見たかったものをうっかり発見しているだけではないだろうか。(自分の嗅覚はもっと大事にしたほうがいいと思う。)
勇崎さん以外の人も、それぞれ勝手な思いを勝手に抱いているだけではないのか。キーワードとして自分の知ってる名前が出てるからといって、それが具体的にどう扱われているかの内実を見ないのは怠慢だ。
目の前の話題として、ゴジラの権利をクリアするためにいろいろ手を考えるのもいいけど、それはこの企画にとって合目的的な検討なのか、雑談なのか、せめてもうちょっとはっきり把握されないと、話はとっちらかっておしまいになるだろう。
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対策提案
なにか共同で企画を進めるときはコンセプトの共有がとっても大切だけど、「
ゴジラ対太陽の塔」においては、すくなくともこの掲示板では、参加者がお互いの考えのすりあわせをする基盤が提供されていない。コンセプトの共有がないまま具体的な話に入ろうとしたから、なんか散漫なことになっているのではないか。
だからつまり逆に、はっきりした目的意識が共有できれば、ゴジラそのものが使えなくても、「ゴジラの時代」とからめて“ヤノベさんの世代特有かつ時代を超えた美意識”を追求した映像をつくることはできる(という希望的観測はできる)。
「ゴジラ対太陽の塔」というタイトルで、ゴジラやその他の怪獣が画面に出てこなくても、たとえば作中にきちんと“怪獣映画”の匂いが満ちていれば、それは「ゴジラの時代」というテーマからたどった美の追求として、ひとつの正しい表現といえる。
むしろ、ゴジラを出したら「ああゴジラだ」でおしまいだったかも。みんなゴジラは知ってるつもりだから。
(ろくに見てないくせに。)
特撮映画「ゴジラ対太陽の塔」の現在の行き詰まりを打開するには、まわり道にみえても、わかりやすいコンセプトの起草からはじめるのがよいと思う。
ヤノベさんがみんなとやりたいことを、的確な(ぼくが抵抗なく読める)言葉で書くと、ほんとうはどうなるのか。あらためて示してほしい。
使える機材や素材、おおまかな日程なんかも示されていると、アイディアを出したり参加しやすくなるのではないか。
以上
みんな新しいものを求めているように言うけれど、それは嘘だ。みんなは、いまのままの世界で安住していたい。だから、求めているのは創造神じゃない。世界を映す鏡なんだよ。思ってもみなかった角度で現実が切り取られていれば、やつらは喜ぶ。使い古した世界が新鮮に見えてくるからだ。それで充分なんだ。
『ノスタルギガンテス』p.165