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『一万年の旅路』(ポーラ・アンダーウッド著、星川淳訳、翔泳社1998)という本が、山田養蜂場の意見広告として2月13日の朝日新聞に全面で掲載された。これは、北米インディアン・イロコイ族に伝わる一万年の記憶の口承史。古くは、ベーリング海峡を歩いて渡った記憶から、近年はアメリカ合衆国建国当時のことまでが口承されているという。驚くべきことに、人類最初の「出アフリカ」の記憶まで含まれているという話だ。
「子どもたちの子どもたちの子どもたちのために」と題されたこの意見広告は、環境問題や教育問題に関連した様々な活動や人や書籍などを紹介するもので、何を扱うかは、社長である山田英生氏の一存によって決定されるという。わたしが編訳した『父は空 母は大地』も、昨年6月、山田英生氏のお眼鏡にかなって、この広告として全文掲載される光栄に浴した。
題材が同じ「インディアン」であるということもあって、わたしは『一万年の旅路』に興味を抱かないわけにはいかなかった。
しかし、広告の全文を読んで、いくつもの疑問符が浮上せざるをえなかった。これは、いわゆる「トンデモ本」の一種ではないか。「事実」「本当のこと」と偽った「創作物」つまり、フィクションをノンフィクションと偽った偽書ではないか、という疑問だ。
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現物を見ないで印象判断するわけにはいかないので、早速図書館に借りにいったがなく、他館よりの取り寄せを待つことになった。仕方ないので、同じポーラ・アンダーウッド著による『小さな国の大いなる知恵』という本を借りてきた。『一万年の旅路』と同じく、星川淳の翻訳だ。
この本は、アメリカ合衆国建国当時の部族の記憶に関して書かれたものだった。建国当時の大統領たちは、幼い頃からイロコイ族と交流を持ち「ねばり強く話し合いで解決する民主的方法」を学んだという。それも、偶然ではなく、イロコイ族の人々が、白人社会の中のコレという見込みのある子どもに目をつけ、密かに教師となる人物を派遣して、日常生活の様々な場面で、その子どもにイロコイ族の哲学を吹き込んだのだそうだ。つまり、民主主義の「半分」は、歴史の表舞台から抹殺されてきた先住民の知恵からなっているという説だ。
この口承史のなかに登場する子どもは、ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントン、トマス・ジェファーソンをはじめとして、合衆国建国当時の歴史に大きな足跡を残した錚々たる人々だ。その正当性を裏づけるように、先住民と白人の混血である著者とフランクリンとが親戚関係であることを示した系図や、著名人と先住民が交流を持ったことを証明する文書や碑文がふんだんに差し挟まれる。
細かい点について、いちいちあげつらう気になれないが、一言でいえば、これは一人のマイノリティとして生きてきた女性が、そのルサンチマンを解消すべく作りあげた「妄想の産物」ではないかと感じた。そのなかに、幾分かは実際の口承もあるかもしれないが、口承された物語と、実際にあった歴史的事実の断片を巧みに組み合わせ、ひとつの妄想的歴史世界を構築したのではないか、という印象だ。普段なら書店に並んでいても、ぱらぱらとめくって「論外」として手に取らないタイプの本だ。
もし、これが妄想による産物だとすると、という仮定でここから話を進めるけれど、口承された物語が「事実と符合する」ということは、何ら驚きに値しない。なぜなら、現代科学や歴史の断片として記録されたものを核にして構成しているわけだから、符合しないわけがない。
本人が「捏造」を意識していたかどうかはわからない。むしろ、本人はその物語に飲み込まれていたのではないか。何度も何度も自分の心に語りかけるうちに、それは、紛れもない「事実」として彼女の心に投影したのではないか。だからこそ、語りかけは力強く、他者をも説得できる力を持っていたのではないか。
少数民族として多数派のなかで生きることは、この世界では困難なことだ。その痛み。土地も文化も強制的に奪われた強い痛みを抱いている人間にとって「実はいまある権力の元となったのは、わたしたちの思想と文化だった」「わたしたちこそが、アメリカ大統領たちを教育した教師だった」と思うことは、大いなる癒しになる。実はそのような逆転の発想に癒しを求めるのは「単なる権力志向の裏返し」でしかなかったとしても、だ。
そのような癒しを心から求めていたとしたら、彼女にとって物語は絶対に「事実」でなくてはならない。事実であってほしいという願いが、ついには妄想の域に達して、事実であると刻みこまれてしまったのではないだろうか。物語と現実の境が曖昧になる人がいるということは、そう珍しいことではない。
訪れる大いなる癒し。心の解放。「アメリカの民主主義」をつくったのは「わたし」なのだという感覚。世界を逆転させ、もっとも虐げられていたものが、もっともすばらしいものをつくって世界の頂点に立ったのだと思える快感。恐ろしく深い痛みを抱いた者だけがつくりうる大いなる幻影。傷が深ければ深いだけ、痛みが強ければ強いだけ、その幻影は大いなる救いとなり、巨大な力を持つ。幻影を妄想した本人を飲みこむばかりでなく、世界になにがしかの違和感を感じ、自らをマイノリティに位置づける人々の共感を呼び、巻きこんでいく。「ポーラは、嘘をつくような人には思えない」「すばらしい人だ」という印象の中で。
そう、ポーラはきっといい人だっただろう。大いなる幻影の中に人を包みこみ、癒す、地母神のような包容力があったかもしれない。かのマザー・テレサのように。ポーラ来日印象記や、訳者の言葉を見ると、確かにそのような印象を抱いた人が多かったようだ。
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訳者の星川淳でさえ、ポーラの「口承詩」の正当性を、最初は疑ったという。しかし、本人にあって話を聞くうちに、こう思ったという。
ポーラの人柄に親しみ、彼女の活動や、それを支える人の輪を知るにつれて、贋物にはないまっとうさを感じとることができた。思春期からいろいろアブナイ思想や集団を見てきた私の眼は、ただの節穴ではない。
疑っても疑っても、一人の人間が創作できる限度を超えていると認めざるをえず、やがて作品としての真偽に興味がなくなった。それより、語られている学びが拭い難く心に沁み込んでくるのだ。
http://www.hotwired.co.jp/ecowire/hoshikawa/010306/textonly.html
HotWired Japan 星川淳の「屋久島インナーネット・ワーク」より
星川淳自身「職業的かつ健全な懐疑は保ちつつ」と文中で述べているわりには、なぜかそのようには見えない文章である。「一人の人間が創作できる限度を超えていると認めざるをえず」というのは、星川自身の想像力の限界を示しているだけであって、星川の想像力を超えた人物の存在を否定する客観的な理由にはならない。「私の眼は、ただの節穴ではない」というのも、星川の主観でしかない。星川がこの文章のなかで挙げている「真実である証拠」とは、実に星川の主観以外の何ものでもないのだ。
星川は、しかしここで重要な「告白」をしている。「やがて作品としての真偽に興味がなくなった。それより、語られている学びが拭い難く心に沁み込んでくるのだ」というくだりだ。星川自身が、真贋論争をギブアップした証拠だ、などというケチなことをいうつもりは毛頭ない。ここで、星川はとても大切なことをいっている。このことは、また後で語ろう。
確かに、星川はとてもいいことをいってはいるのだが、しかし、ここに続く星川のこのような文章を見ると、これはもう「イッテイル」としか思えない気分になってくる。
それにポーラの伝承自体が、かならずしも一語一句正確に語り継ぐという意味の「口承」ではなかったらしい。幼年期から特殊な訓練を積んだうえで、本格的な歴史伝承に入ると、言葉を超えて以心伝心、先祖代々の体験をテレパシーのように追体験しながら言葉に置き換えていくという。つまり、〈歩く民〉の非物理的なデータバンクがあって、そこへアクセスすれば蓄積された経験や知恵はいつでも取り出せるわけで、インナーネット・ワーカーとしては注目に値する。現在、南米最南端からアフリカ大地溝帯へモンゴロイドの旅路を逆にたどる「グレートジャーニー」敢行中の関野吉晴(敬称略)が、ベーリング海峡横断に先立つTV録画の中で〈歩く民〉によるベーリンジア越えのくだりを歌ってほしいと頼んだとき、ポーラは「原語で吟唱する伝統的口承者ではない」と断わりながらも、即座に情景を思い浮かべてほぼ正確に英語の一節を暗誦した。
HotWired Japan 星川淳の「屋久島インナーネット・ワーク」より
ここまでくれば『一万年の旅路』の真贋論争には、もうケリがついたも同然に思えてくる。しかし、実物を見ていないわけだから、結論は出せない。それは、また別の機会に譲ることにしよう。(まだ真贋論争をする必要があれば、の話だが)
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わたしがこの問題を通じていいたいことは、もっと別のことなのだ。『一万年の旅路』についての個別な真贋論争をふっかけたいわけではない。もっと、普遍的な問題だ。
いいたいことは、ふたつある。ひとつは「ファンタジーと事実とを混同してはいけない」ということだ。いいかえれば「フィクションとノンフィクションを峻別しなければいけない」ということになる。
白人がアメリカ大陸に入植した初期の頃、先住民との交流があったことは、想像に難くない。植生も動物の生態も地形もよくわからない土地で、白人が先住民からの助けを受けたということもあるだろう。人と人が出会えば、必ずそこに交わりはある。一方が支配者になり、もう一方の文化を壊滅状態にしたとしても、被支配者となった人々の文化が、支配者の文化に片鱗も影響を与えなかったというのは、ありえないことだろう。痕跡であろうと、それは存在するに違いないと考えた方が自然だ。
合衆国建国期の大統領たちが、先住民からなにがしかの影響を受けたということも、あったかもしれない。そして、先住民から影響を受けたという歴史が、圧倒的な力をもって政治的経済的支配を行った白人文明に陰に追いやられ、過小評価されてきたどころか、記述もされず抹殺されたという可能性もある。
しかし、いくらそれを回復したいからといって、物語を捏造してはいけない。事実として確認されないことを事実と偽ってはいけない。
「弱者は、過剰なほどの反撃をして、はじめて強者と対等になれる」という考え方がある。一部のフェミニズムも、過剰に男性を攻撃することで、ようやく釣り合いがとれると主張する。しかし、それは暴力をもって暴力を制するといった方法であり、暴力それ自体を撲滅することにはならない。世界の構造それ自体に根本的変革を加えることにはならないのだ。
大切なのは、フラットになること。過剰に攻撃して相手を貶めるのではなく、真の意味で平等になるためにどうしたらいいかを、じっくりと考えることではないだろうか。まさにイロコイ族の文化が教えるように。
虐げられた先住民の文化と歴史を回復するのは、実際むずかしいことだ。文字という伝達手段を持たなかった彼らに受け継がれてきた「形にならない文化」があったことだろう。形にしなかったからこそ守り通されてきた、文字文化とは別種の大切なものがあったかもしれない。形にならなかったから、消えてしまったかもしれない。形に残るものの方が残るのは、当然のことだ。
「形にならなかった文化」を回復しようとするとき、わたしたちはゆっくりと、きちんとした形で少しずつ真実を発掘し、残していくしかない。根気のいる仕事だ。すぐ目に見えるようなはかばかしい成果はあがりにくいかもしれない。けれども、嘘偽りなく、そうやって少しずつ確かめられたことこそを、客観的事実として認定すべきだ。
「実は、わたしたちは一万年の歴史を口承していました」というのが、客観的事実なら大発見である。しかし、さまざまなことを鑑み、また口承というものの本来の性質を思うと、疑問を差し挟まざるを得ない。このような「一発逆転」の発想は、スカッと胸がすくだろうし、いっぺんにすべてを解決できるような幻想を与えるけれど、へたをすれば、ほんとうにそこにあったはずの伝承されてきた文化を殺し、塗り替えてしまうことになりかねない。それは先住民文化の復活に一見寄与するように見えて、かえって破壊することであることを、わたしたちは知らなければならない。
先住民文化を大切にしたいなら、このような一発逆転の発想を戒め、地道に誠実に、現実の中に破片となって散らばっている先住民文化を追い求めるしかない。時にそれが、痕跡でしかなかったとしても、根気よく調べ続けるしかない。
『一万年の旅路』が真に「口承史」として伝えられてきたものなら、まず大切なのは文字化にあたり、なるべく忠実にその伝承を書き写すことだ。現実との対応など、二の次の話である。口承史は口承史としてきちんと記述されるべきである。できれば原語で。それこそが、伝承された文化を守ることであり、先住民の文化に敬意を払うことになる。
口承の物語と現実とを「安易に」対応させたりしてはいけない。現実との対応は、注意深く慎重に行わなければならない。現実に物語を合致させるための捏造などあったとしたら、もってのほかだ。それは、伝承された文化への冒涜に他ならない。
また、それを紹介するにあたり、先住民の文化に真に敬意を払いたいのであれば、紹介者の過剰な思い込みを投影してはいけない。「先住民文化はこうであってほしい」という自分の願望に一致した文献だからといって、客観的な検証なしに、それを真実と受けとめてはいけない。それもまた、先住民文化を壊し、汚すことになってしまう。
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もうひとつ、わたしがいいたいことがある。それは、客観的事実と主観的事実はちがうものであるということだ。これでは言葉が足りない。こう言い替えたらどうだろう。外界に存在する事実と、個人の心の中にある事実は違うということ。つまり、外界にどんな事実が存在しようと、その人個人が、深い心の納得を得られて、精神の落ちつきを感じられるのなら、それはそれでひとつの心の事実として認められるべき価値がある、ということだ。
例を挙げよう。うちの猫のノイが死んだ。ノイと呼ばれた生命体は、もうこの世界のどこにも存在しない。再び、その生身の姿を見たり、抱いたりすることはできない。これが客観的な事実だ。この事実は厳しい。とても耐えられない。
しかし、こう考えてみる。ノイは、もうひとつの世界に生まれた。あるいは、生命の源へ帰っていった。そこには、すでに亡くなった多くの者がいる。一足先に逝ったお兄さん猫のメイもいるだろう。わたしの祖父や祖母たちもいる。親しかった友人もいる。ノイは、その人々の歓迎を受け、しあわせにそこで暮らしている。いつの日か、わたしが行くのを待っている。
それは、ファンタジーだ。想像の産物だ。しかし、そう思うことで、わたしは安らぐ。それが「事実」である必要など、実はないのだ。「魂の実在の証拠」も必要ない。そう思えるだけでいい。ファンタジーで構いはしない。現実とは明らかに違う、そのようなファンタジーを抱ける心という不思議な存在に対して、畏敬の念を抱けばいい。「想像力」という、宇宙の果てさえ超えて無辺の彼方へいくことのできる翼を、わたしたちは持っている。それで充分ではないか。
もしも、そのファンタジーを他者と共有できれば、より心強い。人々が「神話」をつくり、それを共有してきたのは、そのためではないだろうか。それは、共有されたことによって「わたしたちの心の真実」となる。それが現実と反していたとしても、構いはしないのだ。人という生き物は、そのようにして深い心の納得を得るものである。それによって、しあわせになれるものである。それだけで充分ではないか。
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勿論、神話が現実とシンクロすることはある。現実世界で生きている人間が生みだした物語なのだから、現実から影響を受けないはずはない。現実(外界の現実)と幻想(心の現実)とは、常に相互に干渉しあって存在するものだ。
だから、それらがシンクロしたからといって、何も大騒ぎする必要はない。それは、充分に予測される範囲のことだ。そして、幻想が現実に反するからといって、それを無闇に貶める必要もない。現実に反した幻想を抱くことで、人が心の深い納得を共有でき、しあわせに生きられるのだとしたら、それは充分に価値のある幻想だったということになる。敬意を払われるべき大切なものだといえる。
つまり、神話や伝承をあくまでも「現実」と対応させ、それに合致したかしないかで、その価値を高めたり貶めたりするのは、幻想(心の現実)というものを、あまりに軽視した方法論だということだ。つまりそれは、心の現実より、外界の現実の方を上とみなし、自らが心の現実を一段下のものとして貶めているということに他ならない。
心の現実としての神話や伝承など、共同幻想だけが、価値があるのではない。たったひとりが夢見たものであっても、それがその人を癒し、明日を生きる力を与えてくれるものなら、それはすでに充分に価値あるものなのだ。
そのような夢想や幻想が、客観的な現実と合致しなければならないということはない。ファンタジーに、もっと大きな価値を与えようではないか。ファンタジーがファンタジーのままで、充分に価値があると認めようではないか。現実と合致しようがしまいが、心の現実として人に力を与えてくれるものがあるのなら、それを享受しようではないか。それが民族や部族の共有の神話であろうとも、たったひとりの人間の夢見た幻影であろうともだ。そのファンタジーが、夢見た人ひとりを救っただけでも量りしれない価値がある。それがもし他者をも救ったとしたら、なおさらすばらしい。そのようなファンタジーすべてを、わたしたちは本来「芸術」と呼んできたのではないだろうか。
そして、客観的現実と主観的現実、そのどちらがより価値があるか、などと優劣をつけるような馬鹿げたことはやめよう。どちらも価値があるのだ。ある場面では、客観的現実を優先しなければならない。いくら、自分には翼があると夢想しても、だからといって、崖からはばたいてはいけない。墜落死してしまう。けれど、だから自分には翼はないと悲観する必要もない。心の現実のなかでは、人は宇宙の果てや時間を超えて、どこまでもはばたくことができる。そのふたつながらに、自らの現実として受けとめればいいのだ。しっかりと峻別しつつ。矛盾するふたつの現実(客観と主観)を共存させられないほど、わたしたちの心は狭くない。わたしたちの心は、もっと深く広いはずだ。宇宙の深みよりもさらに。
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ようやく、星川淳の言葉に戻れる。「やがて作品としての真偽に興味がなくなった。それより、語られている学びが拭い難く心に沁み込んでくるのだ」と彼自らが語っているように、その真偽など、実はどうでもいいのだ。それが、星川淳という人間の心を震わせる力を持ったファンタジーであったというだけで『一万年の旅路』には意味がある。ファンタジーなら、ファンタジーとして受け取ればいい。フィクションでいい。イリュージョンで構わない。それを「現実」「真実」などと無理矢理いいくるめる必要など、まったくないのだ。現実だといいくるめようとしたとたん、せっかくのファンタジーは翼を失って墜落し、先住民の文化は陳腐な嘘に貶められてしまう。
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多くの人は、いまだに「現実」に膝を屈している。「想像力=ファンタジー」に正当な地位を与えていない。だから、幻想や物語を「事実である」といいくるめたがる。人は、こんなことが、ことのほか好きなようだ。
- これは長い間秘密にされ、特別な一族にだけ伝えられてきた歴史の真実
- それをいま公開するにあたっては、必然がある
- その必然とは、人類の存亡に関わる重要なものである
(人類は危機に面している。いまこそ、古の知恵の封印を解くべき時だ、など) - 伝承された真実とは、それまで知られていた伝承や時間スケールを遥かに超える、想像を絶した壮大なものである
- 驚くべきことに、地質学、人類学などの現代科学によって近年実証された最も新しい事実と符合する
(古代の人は真実を知っていた! 科学技術を超えた特殊な力ですでに世界を理解していたのだ!) - ほとんど文献的歴史を有さない歴史的弱者が、実はとんでもない真実を伝承してきた、という逆転の発想
- 社会的にもっとも弱い立場の者が、実は世界を動かす中枢をコントロールしてきたという逆転の発想
- このすばらしい知恵を伝えた人々と同じ力(科学技術を超える力)を、実はわれわれも隠し持っている。それは、いま眠っているだけだ。扱い方を思い出せば、われわれもまたその知恵を使うことができるようになる。
確かに、面白い。なぜだろう? なぜ、人はこのようなアヤシイ物語に心惹かれるようにできているのだろう。
しかし、面白くはあっても、これは陳腐だ。表層的な面白さだ。これに比べたら、現実と幻想、矛盾するふたつの概念を心というひとつの器に入れ、それを互いに反射させあいながら、どこまでも心を深め、宇宙の果てに思いを巡らせることができる人間という存在そのもののほうが、どれだけ深いロマンに満ちているだろう。アヤシイ物語のように、いちいち「現実」と対応させることでしか興奮できない心の在りようなど、浅薄でちゃちなロマンでしかないといえるだろう。(エンターティメントとして楽しむのは自由だけれど)
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『一万年の旅路』には、このようなトンデモ系の軽薄ロマンの上に、さらに血縁幻想が投影されている。それが、人々の心を強くとらえるらしい。
『一万年の旅路』は本国アメリカでの出版数をはるかに上まわる2万部近くまで版を重ね、同じモンゴロイドの血を分ける思い入れも手伝ってか、読者からも予想以上の手応えがある。
HotWired Japan 星川淳の「屋久島インナーネット・ワーク」より
人間とは不思議なもので、血が繋がっているとかいないとか、文化を伝承しているとかいないとか、出身地が近いとか、そのような「仲間意識」にとても敏感だ。わたし自身も、わたしが生まれる10年も前に亡くなった祖父の著作を集めたりしているが、「血のつながり」という幻想は、人を熱くするものがあるらしい。それは、DNAに刻印されたものなのだろうか、それとも、文化的な刷り込みなのだろうか。
血縁幻想を一概には否定するつもりはないけれど、行きすぎるとそれが「選民幻想」につながることは明白だ。もし、それが自動的にわたしたちのなかにセットされた天賦のものであるとしたら、民族と民族、人と人が争わない世界をつくるために、わたしたちはその扱いに充分に慎重かつ敏感にならなければいけない。
同胞を大切にするのもいい、祖先を敬い、その遠い足跡にロマンを見るのもいい。しかし、それを過剰に評価することは、いまある差別社会の裏返しの差別でしかない。白人中心の歴史を塗り替えるために、誇張したり、捏造さえ持ちだすような過剰な反撃をしてはいけない。地道に真実を探求しつづけ、声高にではなく、低い声でもいいから、しっかりと語りつづけ、問いつづけようではないか。それこそが、先住民文化の、ほんとうの復権の道ではないだろうか。
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ファンタジーを語ることは、罪ではない。それを事実だと偽ることが罪になる。事実だと偽るために捏造することはさらなる罪だ。
ファンタジーの力をもっと信用しよう。ファンタジーは、現実の現実ではないけれど、心の現実たりうるのだ。物語だとわかっていても、人は心を震わせる。物語から勇気をもらうこともあれば、物語によって人生を変えられることもある。それならば、物語によって世界を変えられる可能性だってあるのではないか。そのことを、もっと信じよう。
自分の心のファンタジーを「心の現実」だとして尊重し、敬意を払うことができれば、他者の「心の現実」も尊重できるはずだ。「現実の現実」と「心の現実」の間に優劣がないように、「わたしの心の現実」と「あなたの心の現実」の間にも、優劣も正否もない。人が何を信じようが、心に何を描こうが「他者を傷つけないかぎり」それは許容されなければならない。ある心の現実に於いて「だれが正当なる継承者であるか」などということも関係ない。民族の数だけ、宗教の数だけ、人の心の数だけ、それぞれの「心の現実」があってしかるべきだ。そして、それは互いに尊重されるべきだ。その共通理解こそが、いま必要とされているのではないだろうか。
世界を少しずつ美しい場所にするために現実を変革したいという志を持った人々が、ちゃちなロマンや安易な癒しに足を掬われ、裏返しの権力志向の罠に陥らないことを、強く願う。